京都三弘法まいり

法話Houwa

2025年06月19日

京都三弘法 法話 《神光院について》

前回は東寺についてお話いたしましたが、今回は神光院についてお話させていただきます。

元来、神光院は御所に奉納する緑瓦(みどりがわら)を制作する瓦職人が宿所として用いられていた故に瓦屋寺(かわらやでら)と呼ばれていました。

そのお寺にお大師様が42歳の夏にお越しになられ90日間ご修行され、厄難消除(やくなんしょうじょ)、眼病平癒(がんびょうへいゆ)の法をお伝えになられました。
また境内にある池の水面に映るご自身の姿を像に刻まれ、この地を去られる時に『私を信ずる者は老若男女の別なく諸病災厄を除くであろう』と誓願(せいがん)され、お堂にその像を安置されました。

お去りになられてから約400年後、時代は鎌倉時代になりまして、当時の上賀茂神社の神職である松下能久(まつしたよしひさ)が夢の中で賀茂明神に『霊光の照らす地に一宇(いちう、お堂)を建てよ』と神託を告げられます。

その後お告げにあった霊光の照らす地が瓦屋寺と判り、上賀茂神社の一宇を本堂として移築し大和三輪の慶円上人(けいえんじょうにん)を招き、本尊に弘法大師、脇侍に愛染明王、大聖歓喜天をお奉りし、それ以降この由緒に因み「放光山神光院」と名付けられました。

また、幕末まではこの三仏のみお奉りしておりましたが、明治に入ると廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のあおりを受け一時廃寺になりますが、明治三年に直ぐさま復興いたしました。

と同時に上賀茂神社の神宮寺が取り潰しとなり、そのお堂に安置してあった大日如来、薬師如来、十一面観音、地蔵菩薩、不動明王、帝釈天、毘沙門天が客仏(きゃくぶつ)として当院にお奉りさせていただく様になり今に至ります。

お大師様が42歳といいますと弘仁6年(815年)になりますが、この年は多くの人々の厄難を除く為に各所で自像を刻み安置し全国を行脚されました。

その尽きることのない人々を救いたいという想いが益々強くなられたのは、全国を行脚する六年前、お大師さまが唐から日本にお戻りになられ京都に入り直面したであろう、疫病が蔓延り(はびこり)犠牲者が路(みち)に溢れているという惨状が一因だったのではと思います。

お大師様は入定(にゅうじょう)された後、現在も禅定を続けておられ全ての者が救われるように、私達に対して祈って下さっています。

そのお大師様の想いが京都三弘法の神光院、仁和寺、東寺で少しでも感じていただけると嬉しく思います。

ではまた~三弘法でお会いいたしましょう・・・ 合掌

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